「もしもし」の語源
電話に出るとき、日本人は反射的に「もしもし」と言います。あまりにも自然な行為なので、なぜ「もしもし」なのかを考えたことがある人は少ないかもしれません。「もしもし」の語源には複数の説がありますが、最も有力なのは「申す申す」(もうすもうす) が短縮されたという説です。
1890 年 (明治 23 年) に日本で電話事業が始まった当初、電話交換手は相手に呼びかける際に「おいおい」と言っていたとされています。しかし、これではあまりに乱暴だということで、「申します、申します」(これから話しますよ、という意味) が使われるようになり、やがて「もしもし」に短縮されたと考えられています。
「もしもし」が定着するまで
電話の初期には、「もしもし」以外にもさまざまな呼びかけが使われていました。「おいおい」「こちらは○○です」「ハロー」など、統一された挨拶はありませんでした。電話交換手が介在する時代には、交換手が「○○番をお願いします」「おつなぎします」といったやり取りが中心で、一般の利用者同士が直接話す機会は限られていました。
「もしもし」が広く定着したのは、自動交換機の普及により電話交換手を介さずに直接通話できるようになった 1920 年代以降です。相手が電話に出たかどうかを確認するための呼びかけとして、「もしもし」が自然に使われるようになりました。電話機の進化史と並行して、電話の挨拶も変化してきたのです。
世界の電話の第一声
電話に出るときの第一声は、国によって大きく異なります。
- アメリカ・イギリス: 「Hello」(ハロー)。電話の発明者アレクサンダー・グラハム・ベルの助手トーマス・ワトソンが最初の通話で使ったとされる
- イタリア: 「Pronto」(プロント)。「準備できています」という意味
- ドイツ: 自分の名字を名乗る。「Schmidt」(シュミット) のように、名前だけで応答する
- 韓国: 「여보세요」(ヨボセヨ)。「こちらを見てください」が語源
- 中国: 「喂」(ウェイ)。「おーい」に近い呼びかけ
- ロシア: 「Алло」(アロー)。フランス語の「Allô」から借用
- ブラジル: 「Alô」(アロー)。同じくフランス語由来
- インド: 「Hello」が一般的だが、ヒンディー語圏では「Haan」(ハーン、「はい」の意味) も使われる
興味深いのは、多くの言語で電話の挨拶が日常会話の挨拶とは異なるという点です。英語の「Hello」は現在では一般的な挨拶ですが、もともとは電話用語として広まったもので、電話が普及する前は「How do you do?」や「Good day」が一般的でした。
「もしもし」を使わない場面
日本語でも、すべての電話で「もしもし」を使うわけではありません。ビジネスの場面では「もしもし」は避けられる傾向があります。
- 会社の代表電話: 「お電話ありがとうございます、○○株式会社でございます」が標準的
- コールセンター: 「お電話ありがとうございます、○○サポートセンターの△△が承ります」
- 折り返し電話: 「○○株式会社の△△と申します。先ほどお電話をいただきまして」
ビジネスマナーの観点では、「もしもし」はカジュアルすぎるとされ、特に新入社員研修では「もしもしと言わないように」と指導されることが多いです。コールセンターの品質管理でも、オペレーターが「もしもし」を使うことは禁止されているケースがほとんどです。
「もしもし」と妖怪の関係
日本の民間伝承には、「もしもし」にまつわる興味深い俗説があります。「もしもし」を 2 回繰り返すのは、1 回だけの「もし」では妖怪や幽霊が応答してしまうからだ、という言い伝えです。妖怪は同じ言葉を 2 回繰り返すことができないため、「もしもし」と 2 回言うことで相手が人間であることを確認する、というものです。
もちろんこれは科学的根拠のない俗説ですが、電話という「相手の姿が見えない」コミュニケーション手段に対する不安が、こうした伝承を生んだのかもしれません。明治時代の人々にとって、離れた場所にいる人の声が聞こえる電話は、まさに「魔法」のような技術だったのです。
電話番号がゼロから始まる理由にも技術的な必然性があったように、「もしもし」という挨拶にも歴史的な背景があります。普段何気なく使っている言葉の由来を知ると、電話をかけるたびに少し違った気持ちになるかもしれません。日本酒の飲み比べセットを楽しみながら、電話の歴史に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。
電話の挨拶が変わりつつある時代
130 年以上にわたって日本の電話文化を支えてきた「もしもし」ですが、その使われ方は確実に変化しています。特に若い世代では、「もしもし」を言わない電話のかけ方が広がりつつあります。
LINE 通話では「もしもし」を言わない
総務省の通信利用動向調査によると、10〜20 代のスマートフォン利用者の通話時間のうち、約 60% が LINE 通話や FaceTime などのアプリ経由です。これらのアプリでは、発信者の名前がリアルタイムで画面に表示されるため、「誰からの電話かわからない」という状況がそもそも発生しません。相手が誰かわかっている状態で電話に出るため、「もしもし」という確認の呼びかけが不要になり、「おー、どうした?」「はいはい」のようにカジュアルな第一声で通話が始まるケースが増えています。
「もしもし」が生まれた背景には、「電話の向こうに誰がいるかわからない」という不確実性がありました。発信者番号が表示されず、交換手を介して接続される時代には、相手を確認するための呼びかけが必要でした。しかし、ナンバーディスプレイの普及とスマートフォンの連絡先表示により、その不確実性は大幅に解消されています。「もしもし」の存在意義が薄れつつあるのは、技術の進歩による必然的な変化といえます。
ビデオ通話の普及と「もしもし」の消滅
Zoom、Google Meet、FaceTime などのビデオ通話では、「もしもし」はほぼ使われません。相手の顔が見えている状態で「もしもし」と言うのは不自然だからです。ビデオ通話の第一声は「こんにちは」「お疲れさまです」など、対面の挨拶に近い表現が主流です。コロナ禍以降、ビデオ通話がビジネスでも日常でも一般化したことで、音声のみの電話自体が「古い通信手段」として認識されつつあります。
興味深いのは、ビデオ通話では世界各国の電話の第一声の違いが薄れる傾向にある点です。音声通話では日本人は「もしもし」、アメリカ人は「Hello」、ドイツ人は名字を名乗りますが、ビデオ通話ではどの国でも「Hi」「Hello」「こんにちは」のような対面式の挨拶に収束しています。電話特有の挨拶文化は、音声のみの通話という形態に紐づいたものだったのかもしれません。
電話文化の変容
「もしもし」の衰退は、電話文化全体の変容を象徴しています。かつて電話は「リアルタイムで相手と話す」唯一の遠隔コミュニケーション手段でしたが、現在はメッセージアプリ、SNS、メール、ビデオ通話など、多様な手段が共存しています。電話をかける前に LINE で「今電話していい?」と確認する行動は、電話恐怖症的な心理も背景にあり、電話が「突然の割り込み」として認識されるようになった証拠です。
それでも、「もしもし」が完全に消えることは当面ないでしょう。知らない番号からの着信に出るとき、固定電話を取るとき、高齢の家族と話すとき、「もしもし」は今でも最も自然な第一声です。電話機の進化とともに挨拶の形も変わってきましたが、「もしもし」は日本語の電話文化に深く根付いた言葉として、形を変えながらも生き続けるでしょう。